ヒロシマの心を伝えるために、作者たちはまず、ヒロシマの惨禍を事実として表現しようとしている。「ほんとうにあったこと。忘れてはならないこと。
二度とあってはならないこと。」(『つるのとぶ日』あとがき)として、とらえているのだ。(紹介した作品以外のものも様々な角度から、原爆の残酷さを浮き彫りにしようと試みている。
これらの表現活動を通して顕著なのは、先にも指摘したように、使者の代弁者としての作者の姿勢である。そしてそこには原爆投下に対するいきどおり、告発があった。
しかし、それは復讐に向うべきものではなく、恒久平和へと指向するものであった。『つるのとぶ日』は、死者への鎮魂曲であり、生き残った者への応援歌であるとともに、
全人類への平和のメッセージであった。)
『つるのとぶ日』は、刊行と同時に反響を呼び、多くの新聞、雑誌等に取り上げられた。「原爆は児童文学たりうるか。」という原爆児童文学にとっての根本的な問題に始まり、
「リアリズムの方法の確立」という日本児童文学全体への問題提起に及ぶまで、それは幅広いものであった。「子どもの家」同人十余名は、これらの批判、問題提起を受けとめて、
今後どのように取り組むべきかを話し合った。そして、その結果を中間発表の形として、大野允子、山口勇子、宮本泰子の三氏が、それぞれ〈小感〉の形でまとめ、「日本児童文学」
(1964・8)に発表している。
(略)
「被爆の体験を、ヒロシマの惨禍を風化させてはならない、という危機感にも似た思いに支えられて書いていった」と、同人たちは語っている。しかし、
『つるのとぶ日』に寄せられた多くの批判に接して、同人たちは反省をせまられ、不安をかくすことができなかった。これを救ってくれたのが、全国の子どもたちとその母親の反応であった。
自分たちの踏み出した方法だけは正しかったと同人たちは自信を深めたようだ。さいわいヒロシマに住む者の強味を生かして、題材はいくらでも発掘できた。同人たちは被爆体験(直接・間接)
の継承という原点に立ち返り、『つるのとぶ日』刊行を新たな出発点として、さまざまな方向へ書き進めていくことになる。平和の内容も、差別・人権・飢餓・貧困・地域紛争・正義・公害・
地球環境といった方向へ視点が広げられていった。
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